ニートの平日

地方国立大卒ニートの生活記録。「え、ニートに平日も休日もないだろ....」という下らない日記です。

3月11日が来るたびに同情を求めて来る風潮が嫌いです。

初めに言っておくが、この記事の内容は震災の悲惨さをポエムっぽく表現するものでは無い。むしろ、被害に遭った人や、近親者などを無くした人からすると、少し不快に思う人も居るかもしれない。

ただ、僕も一応その近くに住んでいて、かなり不便な思いをした。その立場から、このような内容の記事を書かせてほしい..。

 

また今年もこの日がやって来た。

冬の寒さがまだ残っているけど、どこか埃っぽくて春の匂いがする。

東北の3月はそんなものだ。そして、8年前のあの日も同じだった。微妙な明るさと、砂埃や花粉が混じった匂い、春を喜ぶには少し早い寒さがあった。

僕が住んでいた地域では、午前中は晴れ、午後は微妙な曇り空となっていた。

実家から少し離れた高校に電車で通っていた僕は、部活動のために春休みでも学校のある場所まで来ていた。

 

まだ雪が残っていたので体育館で練習をした。少し変わり者の指導者の下、その日も少し理解に苦しむ練習で混乱したような気がする。

その日の前、僕はそんなに仲良く無かった、当時の高校一年生のクラスの集まりに行っていた。まぁ同じ部活の人間もいたし、そこそこ面白くはあったが、そのあと彼らとは遊んだりはしていない。

その翌日、部活が終わった僕は、同じクラスの人間ともう一度カラオケに行くことになった。

当時歌っていたのは、今見ると「あぁ懐かしいなぁ....」と思う楽曲ばかりだ。それらの曲のMVを見ても、「あぁ昔だな」って思えるのだ。衣装やメイク、撮影セットなどを観て、時代を感じることは誰でも一回くらいはあるだろう。

居酒屋や定食屋で、アサヒビールのイメージガールが水着姿にビールを持っているポスターを貼っているのをよく見かけるが、まさにあんな感じだ。「あぁ昔だな」。当時、僕たちが歌っていた曲は、8年の月日が、すっかり風化させてしまったようだ。

しかし、一方で、8年という月日は、僕の中ではあっという間、つまり大したモノでは無かった。その間に色んな事が変わってしまったのだ。言うならば、僕は時間に取り残されたのだ。

僕が何となく時を過ごした一方で、社会は常に針を回し続け、時を刻み、当時の出来事を置き去りにしてしまったのだ。時間というモノの残酷さをここまで感じる事は無い。世の中は残酷にも進化し続け、当時の流行っていたモノなんて、今は跡形もなく消えようとしている。

 

しかし、自分の中では短かった8年間だったが、記憶というモノはあまり長続きしないらしい。

その間に就職失敗とか色々あった僕は、既にその時の事を上手く思い出せなくなってしまった。少なくとも、100%正確なその時の状況は、もう頭には残っていない..。あるのは断片的な内容の曖昧なモノだけだ。

 

自分の中では最近の出来事だと思っていても、記憶は経過した月日の長さを正確に示していた。

時間の流れと自分の間にギャップを感じたら、まずは当時の記憶の探ってみると良い。瞬時に当時の事を、ある程度正確に思い出せなかったら、それは経過した時間が長い事を示している。

自分が「あれは最近の事で...」なんて言っても、記憶という第三者は冷静に判断を下す。「それは違う。お前がそう思っている、そう思いたいだけだ」と告げるのだ。

それに抗っても、あまり意味はない。それほど記憶というのは、8年の長い間に進化しない僕に、正確かつ客観的に経過した時間の長さを教えてくれた。あぁ無情無情...。

 

そのカラオケの最中に、ついに事は起こった。ある人間の歌唱中、ある人間の携帯電話から、危機感を煽る、あまりに不快な音が鳴り響いた。

当時は折り畳み式の「ガラケー」が主体だったのだが、聞いた瞬間に自分の耳を疑うような、胸からゾクッとする音...。あれはスマートフォンになってからでも変わらないようだ。

その音が鳴り、数秒後、地鳴りのような「ごごごごぉぉ~」という僅かな音がした。その後、いきなり大きな揺れに見舞われた。

カラオケ店の天井からは埃がズザザ~と流れ落ちて来た。おそらく建物を構成していたコンクリート地震によって擦れて落ちて来たのだろう。それだけで、この地震の大きさは何となく分かった。コレは大変だぞ、と。

 

店員の「早く出て~」という悲痛な叫びが聞こえていた。女性の店員の声だ。そのカラオケ店の店員は見た目も振る舞いも褒められたものでは無かった。愛想というのはほんの申し訳程度、弁当のおかずの下に敷いてあるパスタにも及ばないレベルの、そういう人間だった。

そんな彼女たちが、大声で「早く出て」と、自動ドアを必死に抑えながら叫んでいるのを見ると、僕は「コレまたヤバい事態だな」と事の大きさを実感した。

彼女たちの表情に、人を馬鹿にしたり騙したりするような意図は感じられない。客の中には、震度6の地震があっても、ヘラヘラしてスグに逃げない人間も居たため、彼女たちも感情的になったのかもしれない。

擦れた女が、必死に助けを求めるようでもあった。僕は彼女たちを見て、とりあえず外に出ることにした。走ってカラオケ店の外に出た。

 

外に出ると、わずかに看板や建物、クルマ揺れているのを確認した。県庁所在地では無いものの、国道沿いで、チェーンのファミレスやファストフード、ブラック労働で知られるアパレル店などがあったため、建物が崩れたり、看板が落ちて来る心配も少しはあった。

 

周りからは叫んだり怖がる声も聞こえて来たが、僕はあまり騒ぐ気にはなれなかった。騒いだ所で災害は止めようがないし、復旧が進む訳でも無かった。

むしろ、被害状況などが聞こえずらくなる事もあるし、僕らが騒ぐ事は意味がないのだ。それに僕は騒がしいのがあまり好きでは無い。どちらかと言うと大人しく目立たない事をしていたかった。そこには、まぁどうにかなるだろう、という楽観的な期待も含まれていた。

 

しかし、その期待は木端微塵となって裏切られる事になる...。

いつまでも復旧しない電気、動かない電車....。足止めを食らった僕は、駅で運行再開の連絡を待ったが、一向にその気配すら感じない。

カラオケを切り上げて数時間。結局、僕は帰る手段すらなく、自転車で帰る決断をする。変速機の無いママチャリで、20キロ先の家路を自転車で目指すことにした。

11日は3月にしては冷え込む日だった。日が暮れると雪が降りだし、部活のダサいジャージ姿の僕を、刺すような寒さが襲った。

アップダウンの激しい国道を走る。時々、寒さで足が動きずらくなっても、手が凍りそうになっても、僕はチェーンを動かして車輪を回す行為をやめない。ただ、そこには、少しでも早く暖かい所に行きたいという気持ちがあった。

僕が住む街につくと、街灯は消えていた。田舎出身の僕でも、コンビニと信号の明かりが消えた所を観たことが無い。どんなに遅い時間でも、何らかの明かりが点いていて、「僕はまだ活動していますよ」と、道行く人の心を少しでも安心させるモノだと思っていた。

しかし、その時は、その僅かな灯さえもも無く、僕はこの世界にただ一人だけ残されたんでは、という不安感に襲われた。ゾンビ映画で街が壊滅的な状況になるシーンがあるが、それとも少し違う感覚だった。何もなく、一瞬にして社会が活動を停めた感じだった。

 

家の最も近くにあるコンビニ(直線距離で500mくらい)に立ち寄ったが、そこでも店の明かりは無かった。店員が電卓を打って、商品を販売していた。

カップラーメンなどのスグに食べられるモノは棚にはほとんど無かった。韓国産の辛いラーメンだけが残っていたが、災害時には辛いモノを敬遠する傾向が人間にはあるのかもしれない。

 

家に着いたのが午後8時。学校の最寄り駅を出て、約2時間。20キロの距離を自転車で移動すると、平均的な所要時間は大体それくらいで落ち着くだろう。個人差はあるが、チャレンジしたい人はぜひ試してもらいたい。

 

家に着いても、僕が期待していた暖かさは皆無だった。冷え切った玄関には何も無い。僕はかなり空腹を感じていたので、棚にあったとんがりコーンを食べて、それを凌いだ。携帯電話を見ると、僕の身を案じた親からの着信が入っていたが、雪降るアップダウンの激しい国道を20キロ走っていた僕に、それに応対する余裕は無かった。

記憶が曖昧になって、社会と自分の距離がどんどん出来ても、あの時の記憶は、今でもわりと正確に思いだせる。自分でも、アレはよくやったと今でも思っている。

 

さてさて、家でも電気が止まったので、僕は震災の被害の状況を、2~3日後に目にする事になる。

ラジオでは津波が襲ったとか、そんな情報が入ってきた。津波なんて、まぁ少し街が浸水する程度だろうと思っていたが、テレビでやっていたのは想像をはるかに超える状況だった。リアルで津波の被害を観たのは始めだった。

意外にも、電気が通っていた関東や関西以西の地域だと、震災の津波をリアルタイムでテレビで見られたらしい。何とも皮肉な話だ。近くの人間ほど、その情報に触れられないとは...。

当時は「〇〇が〇〇らしい」という人づてに情報が流れてきたりで、それが正確なのか間違っているのかを検証するコストが掛かる。電気もなく、ネットも遮断された時、情報を精査することは恐ろしく難しい。

幸いにも水は出たしガスも付いたので、僕は20キロの道のりを自転車で、寒い想いをして走ってきたくらいで済んだ。家の水とガスが止まっていたら、どうなっていたか分からない。

 

被災の状況は悲惨だ。それに疑いは無い。しかし、復興も進んでいるんだか分からない。

少し話は逸れるが、復興の名の下に開催する東京オリンピックも来年に迫ってきた。とても復興に繋がるとは思えないのは僕だけだろうか?

東京でオリンピックをやるのは良い。しかし、国のお金も使って1兆円くらいの赤字を見込んでいるという。そのうえ、本来は復興に必要な人材が、オリンピックの施設を整備するために使われているという話もあるらしい..。

僕は反政府論者でもないし、政府ベッタリの人間でもない。いわゆるノンポリと言われるポジションの人間だ。開催するのは勝手だし、華やかで面白いモノでもあるのは分かる。

が、それを「復興五輪」と銘打って、果たして良いモノか?やるにしても、ムリなこじつけは辞めてもらいたい。

進んでいるのか進める気が無いのか分からない被災地の復興...。真面目に復興させたいなら、オリンピックではなくそちらにリソースを割くだろう。要は、東北の田舎など、まぁ二の次だという事だ。

それも、政府としては合理的に国を経営していく手段なのだから、仕方が無いのかもしれない。別にオリンピックにも政府の方針にも、文句を言う気はない。会社で言うと、採算部門にお金と人材を割くのは正しい事とされる。

そして、不採算部門にお金を使うのは、良い経営からは逸脱しているとされる。国と株式会社を同列に扱うのはムリがあるが、「組織の運営」的には、儲かる所にコストを割くのが効果的なのは言うまでもない。

 

しかし、そんな中で、未だに、「震災についてどう思うんだ?」と強気に尋ねて来る輩がいる。僕はこの事に物凄い違和感と疑問を覚えるのだ。

どう思っているのかと聞かれても、大学を出ても職に就けないような僕には、せいぜい「悲惨だし、早急に復興される事を願っています」としか言えない。

僕がお金をつぎ込んで復興を進める事は出来ないし、祈った所で何かが前に進む訳でも無い。それは政府だったり行政の人間たちが行う事である。または影響力のある著名人などが、その気があれば取り組めば良い事だ。

政府が復興を進める気があるのか不明な状況で、一般人に強気にそれを聞いても、意味がない事くらいは、20年ほど生きていれば分かるはずだ。

 

そして、僕の毎日は、現在もあまり面白くないものだ。高校に在学中もフラフラと歩いて、何となく生きて来た。大学に入ると、普通に単位は取って卒業はしたものの、就職という高い壁を突破できなかった。そして、震災の有無にかかわらず、僕の毎日に変わりはない。

そんな冴えない境遇の一般人に、震災の被害について同情を求めるのは辞めて欲しい。それはホームレスの人間に、議員の裏金問題を尋ねるようなものだ。

 

震災について議論したい人は、ぜひ中央省庁の役人や、自民党の人間を捕まえて「お前は震災についてどう思うんだ?」と聞いてみれば良い。その方が明らかに有意義な議論となるはずだ。

被害が悲惨なのは分かる。だが普通の人は、毎日を生きるだけでも大変なのだ。営業先で怒られたり、会社で理不尽な目に遭ったり、学校で人間関係に苦しんだり...。そんな毎日を過ごしている人間が、震災について意見や同情を求められるのは、とても鬱陶しいだけなのだ。

「震災なんて知らねーよ」とまでは行かないが、一人の民間人がそれほど震災について同情したりしなければいけないのか?と疑問に思う昨今。やれやれだぜ....。

 

ではでは...。

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