ニートの平日

地方国立大卒ニートの生活記録。「え、ニートに平日も休日もないだろ....」という下らない日記です。

読書感想「そしてドイツは理想を見失った」 ドイツの理想とそれ故に抱える問題。

この前、「世界一豊かな国スイスとそっくりな国・ニッポン」という本を紹介しました。

 

同じ著者の川口さんが書いていて、また面白い本があったので紹介します。

ドイツの抱える問題や、「そもそもドイツってどんな国なの?」というのが書いてあります。

 

日本にも共通する事がありますので、その辺を考えると面白いと思います。 

 

 

 

最初の第一章の部分からすごく面白かったので、そこから引用して紹介します。

「え、ドイツってそんな国なんだ....」という感じです。

 

次の章からは、より具体的にドイツの抱える問題について書いてありますが、ここを読むとより深く考えることが出来るでしょう。

 

なので、まずはこの一章から読んでみましょう。

 

自然よりも精神を重視する「ドイツ観念論

ドイツには、「ドイツ観念論」という哲学の系譜が存在する。ドイツ語では、DeutscherIdealismus(ドイツ。イデアリズム)で、直訳すれば「ドイツ理想主義」である。明治時代の先人が、イデアリズムを観念論と訳したのほあそれなりに素晴らしい感性ではあるが、ドイツ理想主義としたほうが、いまではわかりやすいかもしれない。

 

ドイツ観念論」は十八世紀後半から十九世紀初めに隆盛した思想で、その代表的な思想家が有名なG・W・フリードリヒ・ヘーゲル(一七七〇~一八三一)。簡単にいうなら、それは自然よりも精神のほうを高い位置に置くという考え方だ。すなわち、世界にはなんらかの精神的な理想が存在していて、それが歴史などを通じて実現する。そこでいちばん重要なものは、もちろん人間の「理性」だ。

 

観念論の対義語はMaterialimsus=物質主義で、これを知ると、現在のドイツ人の思想や行動を多くも、「なるほど」と説明がつく。

 

なぜなら彼らは、物質を軽蔑しつつ、同時に心を惹かれるというアンビヴァレンス(相反する)な感情にしばしば苛まれるからだ。そのせいだろう、古来よりドイツでいちばん尊敬されるのは、医者でも、科学者でも、哲学者や神学者など、ほんとうに物質ごときとは遠く離れたところで思索している人たちだった。中国人が物質に執着しつつ、儒教における君子を求めるのと本質は同じかもしれない。

 

第一章の冒頭。ここからすでに面白いですねぇ。

ドイツでは、ホントに尊敬されているのは、哲学者や神学者などとは....。意外ですな.....。

ドイツはモノ作りが上手くて、リアリストで、凄く物質を大事にするイメージがありました。僕の常識が覆された部分です。

 

 

そうしたドイツ観念論に加え、フリードリヒ・ニーチェ(一八四四~一九〇〇年)の実存主義などに強く影響され、人間の「存在」の意味を歴史や時間軸で思索するという独自の哲学を打ち立てたのが、マルティン・ハイデッガー(一八八九~一九七六年)である。そのハイデッガーは、戦前にナチの思想を支持していたことを指摘され、その加担者といわれて、戦後も長らく大きな論争に巻き込まれつづけた。

 

いずれにしても、戦後のドイツは、このナチズム抜きには語れない。ドイツ人にしてみれば、自分たちはヘーゲルの時代、いや、もっと前から高邁な思想を追及していたはずだったのに、ヒトラーのせいで道を踏み外してしまったのだ。

 

だからこそ、ナチズムに対する反省、そしてそこからの脱却こそが、ドイツ人の最大の課題となった。とくにドイツの知識人には、道徳的なものに対する過剰なまでの欲求があるのは、自分たちがすさまじい負の遺産を背負っているという肩身の狭さと表裏一体なのだろう。

 

ここは日本にも共通している部分だと思いました。

 

「ナチズムに対する反省、そしてそこからの脱却こそが、ドイツ人の最大の課題となった」とありますが、コレは日本にも言える事ですよね。

戦前、戦時中の軍国主義の反省とか、二度と戦争をさせないとか、そんな言葉を日本でもよく聴きます。

やはり戦勝国から植え付けられた「自虐史観」が未だに色濃く残っているのでしょうねぇ。

 

「自分たちがすさまじい負の遺産を背負っているという肩身の狭さ」と書いていますが、これも日本にも共通してありますよね。

 

日本は必要以上に外国を擁護する傾向があります。日本の領海に進入してくる事件が後を絶ちませんが、それに対して抗議をする事も日本では悪とされます。

それは、「日本は悪い事をしてきたから、我慢して当然」という考えが潜在的にあるような気がします。

 

やはり、日本とドイツの「負の遺産を背負っている」という思想は共通しているようですね。それは時として自虐的とも思えますが。

 

 

ドイツの歴史は真っ二つに分断されている

 

「虐殺の歴史というのあ、無視するものといつでも相場が決まっている。ただ、それを告白した国がただ一つである。ドイツだ」(ドイツの大手新聞『ディ・ヴェルト』紙タブロイド版、二〇一六年五月二十七日付より)

 

ドイツは第二次世界大戦後、何十年にもわたってホロコーストに対する反省と謝罪を国是としてきた。それはまさに、全体主義の生んだ罪を生産しようとしたことにほかならない。犯罪の規模があまりにも大きく、証拠も出揃っていたために、早急に対策をとらなければ国際社会に復帰できないという切迫感も強かった。終戦直後のドイツのイメージは、それほど損なわれ、地に堕ちていたのだ。

 

そこでドイツに残されたのは、ナチズムという過去を絶対悪として、 それを現在から切り離すという作業だった。戦後のドイツからは、ヒトラーに共感し、あるいは熱狂し、その政治の一翼を担ったり、草の根として下から支えたりしたはずの人達が忽然と消えた。はっきりと黒い証拠が出た人間だけは、公職や重職から追放されたが、それは国民のごく一部でしかなかった。

 

第二次世界大戦後、「民衆扇動罪」は基本法にあらためて規定され、それが東西ドイツ統一後、さらに厳しくなった。一九九四年には、ホロコーストに特化した第三項が付け加えたられ、ホロコーストがなかったとか、それはひどくなかったなどというと、罰せられることにになった。

 

そして二〇〇五年には、ナチを賛美したり、被害者を傷つけるような行為や集会を制限する第四項が加わった。

 

ヒトラーの徹底否定。戦後ドイツはこの国是の上に建てられているといっても過言ではない。それは、ヒトラーは絶対悪で、それを超える悪は存在しないという考え方だ。これまで起こったどんな虐殺とも別次元の、絶対的な悪として、ホロコーストは捉えられた。

 

だからこそ、ホロコーストは何とも比べてはいけなかったし、ヒトラーやナチズムの研究も禁止された。その研究は、ホロコーストの否認や、相対化や、無害化につながる可能性があったからだ。しかし、研究がすべてダメになると、いったい何が起こるのか?当然、ドイツの歴史はヒトラーの死とともに、真っ二つに分断されることになる。「それ以前」と「それ以後」だ。

 

「それ以前」から「それ以後」につながるものは認められない。ドイツ人が浮かばれるためには、その方法しかなかった。こうして、ドイツ人は戦後、時分とは無縁の「それ以前」の世界の人々の罪を、彼らに変わって謝罪しつづけた。

 

ドイツの歴史は2つに分断されているという、これまた面白い部分です。

 

ドイツにも、日本と同じような「自虐史観」的な考えが強く、戦時中の政治や指導者を否定的にとらえる風潮があります。

だからドイツは戦時中を絶対悪とみなして、ドイツの歴史から切り離そうとしている訳です。

 

しかし、ヒトラーの徹底否定したり、ヒトラーナチスの研究も禁止されたと書いてありますが、コレは逆に良くないですねぇ。

その時代も立派なドイツの歴史です。当時の複雑な国際情勢があって、ナチスが台頭したことも、忘れてはいけないでしょう。

実際、アメリカもロシア(ソ連)も虐殺はしてきてる訳ですし....。どちらかというとソ連スターリンとかの方がヤバいと思いますが。

そういう意味でも、ナチスヒトラーを絶対悪と決めつけるのは、逆に危険な気がします。

 

後にも述べられていますが、いくらその国にとって恥じるべき歴史であっても、それを冷静に研究する事を止めてはいけないでしょう。

ちゃんと研究して、歴史から学ぶことから、二度と繰り返さないという事も可能になると思ってます。まぁその辺は後にも述べています。

 

 

一九八〇年代に大議論になった「歴史家論争」

 

ドイツでナチズムについての解釈がぶつかり合い、その論争が歴史学界だけでなく、政界、経済界などの多くの知識人を巻き込んで最高潮に達した時期がある。一九八〇年代後半におこったその大論争は、「歴史家論争」を呼ばれている。

 

事の始まりは一九八六年、歴史家であり、哲学者であったエルンスト・ノルテ(一九二三~二〇一六年)が、ドイツの大手一流紙である『フランクフルタ―・アルゲマイネ』紙に寄稿した「過ぎ去ろうとしない過去」という論文だ。

 

この表題の意味はこうだ。あらゆる事象は、その時代の政治や利害を反映し、しかも濃厚な感情に支配されて形成される。しかし、政治的環境や利害関係はやがて変化し、感情すら薄まっていく。そこで、ようやく冷静な検証が可能になり、自称は「過去」となれる。

 

ところが、ナチズムだけはそういう自然の流れを取れない。なぜなら、それについての議論や研究が禁止されているからだ。 その結果、ナチズムは客観的な過去、つまり、歴史となることができない。その反対で、ますます生き生きとし、力強くなっていく。つまり、表題の通り、「過ぎ去ろうとしない」。

 

ノルテはすでに一九八〇年、「歴史伝説と修正主義のはざま? 一九八〇年の視角から見た第三帝国」という講義において、第三帝国ヒトラーの政権)についての認識には修正が必要であることを提唱している。

 

彼によれば、一定の人間を根絶しようとするアイデアさえ、ヒトラーの時代に世界で初めて生じたものではなといういという。それ以前に、ヨシフ・スターリンの階級テロである「大粛清」という「オリジナル」が存在する。そうした事実を無視し、また比較することも研究することも禁止し、アウシュビッツだけを孤立させて裁くことは無意味である。研究そのものは、敵視の伝説化でも、修正主義でもない。だから、変化した現実を踏まえて、もう一度、戦前の歴史を研究すべき、というのがノルテの公演の趣旨だった。 

 

やはりドイつにも、過去を冷静に分析すべきだと主張する人がいます。

エルンスト・ノルテという、いかにもドイツらしい名前の人が、そのような素晴らしい指摘をしています。僕も、それが大事だと思います。

 

歴史というのは時代が進んで初めて冷静な分析をする事で、歴史となれる。が、ナチズムはそれが出来ないから、歴史となる事ができない、つまり「過ぎ去ろうとしない」というのも、面白い表現ですね。

 

やはり、何かを「絶対悪」と決めつけるのは危険だと思います。

歴史というのは、その時代の事情を反映しています。ナチスが台頭してきたのも、ちゃんと理由があるはずです。それすら禁じられているのは、やはり戦勝国が植え付けた都合の良い歴史観が影響しているのでしょう。

 

 

今のドイツでは、ヒトラー以前のドイツ史にも、その封建制のゆえ、あるいは、アウシュビッツの「前史」であったという理由のため、そこはかとない否定的なニュアンスが添えられる。ドイツ人には、すなわち、自分の過去に自信を持つことを禁じられた人々であるともいえるだろう。だからこそ、「自信を持ちたい」という欲求は、あらゆるエネルギーのとともに、「理想」の追求となって未来へと向かうのである。

 

ここは著者の鋭い指摘が現れた部分です。僕はここを読んで「なるほど~」と思わず唸ってしまいました。

他でも触れていますが、今のドイツがなぜそうなってしまったのかを、凄く性格に表現していますね。

 

ナチスヒトラーからの脱却というのは、ドイツを「理想」へと向かわせています。

それはやはり日本も同じで、日本も「戦争からの脱却」という理想の下、極端に周辺諸国との協調を目指してしまっている気がします。

 

ドイツは現在、難民政策の失敗で治安が悪化しています。

なぜドイツはそんな失敗をしてしまったのか?と考えると、筆者の言っている事がすごく説得力のある説明に感じます。

 

 

ここでは、本の第一章の部分を紹介しました。

具体的なドイツの難民政策、エネルギー政策の失敗などについては後で述べられています。

すごく面白いので、読んでみて欲しいです。

 

 

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