ニートの平日

地方国立大卒ニートの生活記録。「え、ニートに平日も休日もないだろ....」という下らない日記です。

『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』 正義という共同幻想と過激な自粛警察。

こんちわ、なおっちです。ブログで生き恥を晒しています。

この前はこんな本を読みました。

 

 

本書の著者の森達也さんは、オウム真理教ドキュメンタリー映画とか、本を出版しています。

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本書は著者の雑誌の連載をまとめた思想書です。「正義という共同幻想」というモヤっとした正体の分かりずらい物をテーマにしています。著者自身やや左寄りな思想を持っているため、若干???と思う所もありますが、それでも面白い内容になっています。

 

例えば、「自分の子供が.....」というタイトルの通り、犯罪者を重い刑罰を下すだけが社会の役割ではないよね...という思想が本書の主張です。森達也は、たとえ自分の子供が殺されても、犯人を死刑にはせず、あくまで更生させてあげるのが社会の役割である、という立場です。それには様々な意見があるでしょう。

本書のタイトル「自分の子どもが....」の通り、世の中には「被害者感情」なる言葉があります。殺人などの事件があった時に、「被害者や遺族の立場を思うと.....」とニュースの人が言っているのを聴いたことがあるかもしれないですね。

例えば、オウム真理教地下鉄サリン事件は、誰が指示したのかが分からないままでした。麻原は目が見えなく、部下の過剰な忖度もあり、科学技術部門の村井も既に殺されている、そのうえ麻原は精神状態が悪化し証言が出来ない.....こんな状況で、死刑が確定し、執行されてしまった。司法の役割は真実を明らかにする事だろう、と。著者の森はその過程を取材し、映画や本にしています。それもあって、感情論で死刑を求めることに抵抗があるのでしょう。

 

そもそも、司法は民意や感情とは距離を取るべきもので、民主主義の手続きは採用されていません。高度な判断を伴う、下手をすると人の生き死にを決める場所なので、プロフェッショナルに任せるべきシステムなのです。だから、本来的に感情は入るべきではありません。

本書にも書いてますが、逆に殺人の被害者に遺族が居なかった場合、加害者は無罪なのか?「自分の子供が~」と言う場合、では被害者が既に誰の子でも親でも妻でも夫でもなかった場合は、遺族が居ないので無罪なのか?そんな訳ないだろ。感情論を司法に持ち込むと、このような落とし穴に引っ掛かります。

 

死刑反対の立場には、「事件を風化させない」という主張をする人もいます。森も同じ側です。あらゆる物事は時間と共に風化していくものであるが、なるべくそれを防ぐため、死刑は辞めましょうと。僕自身も、事件を起こした人が死んで終わりなんて都合が良すぎる、と思う事もありますが。

 

そもそも死刑というのは本書でテーマになっている「正義という共同幻想」がもたらしているのかもしれないですね。共同幻想は、人が多ければ多いほど大きくなります。「凶悪犯は殺せ」と。

本書に取り上げられているのは、まずオウム関連で、あの時は「奴らは死刑にしろ」という世論が強くなって、真実を明らかにしようとする力は働かなかったんです。共同幻想は大きくなるほど、真実を見誤る傾向がありますと。そのあと日本では、裁判員制度が導入され、さらに司法に共同幻想が反映されやすくなったと...。

アメリカでも同じで、ビンラディンが2011年に殺された時も、オバマは「正義は成し遂げられた」と言ったようです。そのあとオバマ政権の支持率は上がったと。でも、何で同時多発テロが起きたのか、という真実は明らかになっていません。殺してお終いでは、また事件はくり返すだろうと思っていたら、シリアでISが台頭してきた、と。

 

共同幻想は大きくなると、責任の所在がイマイチ分からなくなります。みんながそのように言っていたから、という理由で何かが起きた時に、ではそのあとに後悔しても遅いと。オウムも同じですね。今さら真実を明らかにしたくても、もう出来ない。共同幻想がもたらした悲劇です。

 

共同幻想は、新型コロナが流行している現代社会にも蔓延っています。「自粛警察」がまさにそれです。とにかく宴会は許さない、みんなで集まるイベントもやめろ、と叫ぶ人達は、自分が正義だと思っているんです。いやいや、人間だから飲み会だってあるし、飲食店の人だって生活があるし、イベント関係の人だって仕事が無くなったら困るだろ。彼らにはそこが欠如しています。

中には新型コロナウィルスに感染した人の会社に電話をして抗議したり、県外ナンバーの車に悪戯をしたりする人までいるようですね。でも彼らは正義でやっているんでしょうね。共同幻想とは恐ろしいです。

 

現代には、「ポリティカルコレクトネス(通称ポリコレ)」という言葉があります。以下に引用を載せます。

ポリティカル・コレクトネスpolitical correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、性別人種民族宗教などに基づく差別偏見を防ぐ目的で、政治的・社会的に公正中立とされる言葉や表現を使用することを指す[1][2][3]。「政治的妥当性」、「政治的公正」、「政治的適正」、「政治的正当性」、「政治的正義」などの訳語も使われる[4]

ポリティカル・コレクトネス - Wikipedia

 

一見正しいように見えますが弊害もあって、それに抵触するのを恐れるあまり本当のことが言えない、という問題も発生しています。何か言うとスグに「差別だー」とか噴き上がる連中が多いですが、まさにそれはポリコレという共同幻想を振り回しているという事態なのです。実際、政治は科学的真実に基づいて行われるべきなのですが、ポリコレに配慮するあまり当たり障りのない事しか言えずに、なぁなぁになるという事態が発生しています。ポピュリズムもここから生まれています。

ポリコレは表現の自由にも影響してきます。最近だと、ある化粧品会社が「美白」という表現を止めると発表しました。それを推しているのは実はリベラルと呼ばれる人間たちだったりします。本来リベラルとは寛容を意味するのですが、不寛容まっしぐらです。これもポリコレ、正義という共同幻想の産物です。

 

2013年に書かれた本なのですが、2021年の現在にも通用する内容です。このままだと、何時か恐ろしい世の中になっているかも...。本書の内容について正しいか街がているかの判断はしません。僕は専門家ではないので。でも考えるきっかけにはなってくれるので、暇な人は是非。

 

 

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