ニートの平日

地方国立大卒ニートの生活記録。「え、ニートに平日も休日もないだろ....」という下らない日記です。

あえてレールから外れる逆転の無職論。

こんちわ、なおっちです。約4年に渡って無職ロックンロールを叫び続けた26歳。

という訳で働き始めました。スーパーで肉を切ってます。

 

仕事を初めて気づいたのは、働くって素晴らしい、ということ。別に大した仕事じゃないけど、労働力を提供して金を貰うことに悪いことなんて一つもないのです。別に大した仕事じゃないけど、仕事を終えた後、休みの日に何処かに行くとき、全てに於いて無職期間の時より幸福度が高いです。

 

ここから得た教訓がある。人間は一度、無職になるべきだ。

 

これはあくまで個人の感想だ。でも無職を経験して得られるものは多い。無職とはつまり、自分に何もない状態。仕事、金、人間関係、責任など、無職の人間には縁もない。あるのは自分というあまりに無力な存在だけだ。そんな自分という存在を受け入れ、ただただ考える。そうすることで、自分という存在以外に何もない、という状態に慣れ、「自分には最低限何が必要で、何があれば満足出来るのか?」という問の答え(らしきもの)に到達できる。

 

もちろん、その問いに1+1=2のような絶対的な答えはない。あくまで答えらしきものしかない。見方によっては宗教のようだとか言われるかもしれない。しかし、自分という器の中に何を詰めるかという問を立て、暫定的な答えらしきものを導きだすことは、下手をすると人間にとっては何より重要なのだ。自分という器は無限ではない。あらゆる物事には限度がある。何でも入れられる訳ではない。何かを入れたら、何かを入れられないかもしれない。それを選ばなければいけない。そこに何を入れたら良いのかを知れるのは自分しかいない。それを他人に決めて貰うことは出来ない。

 

残念ながら、人生でその問いについて考えられる時間はあまり多くない。学校では部活をしろ勉強をしろと言われ、ゆっくりと思考する暇は与えられない。そのまま社会に出て、忙しさに忙殺され、いざ我に帰ったときに、「さて自分は何をしているんだ?何がしたいんだ?」と答のない問に為す術なく立ち尽くしてしまう....。

 

例えば、学校を出て証券会社に就職したとする。言っては悪いが、証券会社が売ってる商品は怪しい。一説によると、儲かる望みが薄い商品を無理にでも売り付けようとするらしい。成果のでない部下に対しては四季報を投げる、椅子を蹴るなどの指導がされるらしい(これも一説によるとで、はあるが)。

そもそも株式などに詳しいなら自分で運用すれば良い。今時ネット証券があるから、客から金を預かって運用する必要はない。バフェットは証券会社で営業してるのか?違うだろ。

んで、そんな場所で働いて消耗して、果たしてそれは何になるのか?世の中に仕事なんて沢山あるなか、証券会社の仕事をする必要はあるのか?僕に言わせると、多くの証券マンの仕事は、無くても困らない。必死に営業してやっとの思いで金をかき集めて、その金を運用してる時点で、その仕事の価値は薄い。本当に価値のあるものに対しては、客は自ら足を運ぶなり自分で調べるなどして買いにいくものだ。食料品をスーパーやコンビニに買いにいくのと同じだ。本当に必要なら客は自分から買いにいく。

もちろん全ての証券会社や証券マンに価値がないと言っているわけではない。優秀な会社やファンドマネージャーは世の中に存在する。しかし多くない。世の中の大半の人は金持ちではなく、そんな人達から金をかき集めようとしている事から、それは明らかだろう。貧乏人に儲け話はこない。 

そんな証券会社のような場所で消耗していく人間は、果たして本当に証券に拘る必要はあるのだろうか?たぶん、ない。世の中ほかに仕事はあるからだ。でも何でか、ブラック企業で消耗してしまう人はいるのだ。なぜか?その人は、きっと「自分には何が必要か?」という答のない問いに対峙したことがないのではないか?だから、何か分からないけど、とりあえず詰め込んでいる、という状態になっているのではないか?

 

人間はうまれた段階で何をすべきかなど決まっていない。つまり人間には本来的に何も備わっていない。これが人間の本当の姿だ。だから本来の何もない状態から、自分には何が必要で、何を身に付けていく必要があるのか?を考えなければいけない。これが答のない問いだ。

 

残念ながら学校ではその問いに対して答えどころかヒントすら与えてくれない。受験科目には当然ながら答えが用意されているし、何より学校では教員という絶対的な答えが存在している。教員の言うことをやることが、学校では正しい。それゆえ学校は答のある問題を解くことを訓練する場所だ。学校という中途半端な環境に包摂された状態では、自分には何もない状態で考えることが、できる訳がないのだ。もちろん学校を否定するわけではないが。

 

だから、人は一回は無職になるべきだ。中途半端に何かに包摂された状態で、自分の器に何を入れたら良いのかという深い問に立ち向かえない。その問に対峙できるのは何もない自分だけだ。学校を卒業し、本来の何もないつまり無職という状態に立ち戻って、最低限自分には何が必要かを考える。じゃないと、中途半端に何かを詰め込んで、振り返ってみて自分の気に入ったものは何も残らなかった、という事になりかねない。話しは少し逸れるがコストパフォーマンスで物事を考えると、中途半端で何も心に残らないことになる。

 

もちろん無職になれない人間もいる。「自分という有限な器に何を入れるか?」なんて贅沢な問題について考えるほど豊かではない、という人だって、間違いなくいる。そういう人は、まずは働いて金を作ってから、少し無職になれば良い。働くことつまり会社に勤めるということの答は「利益を出す」という答えがあるし、「答えがある」という意味で学校のテストなど大きな違いはない。

 

しかし自分には何が必要なのか?に答はない。あるとしても人によって違う。誰かが教えてくれることはないし、誰かが答えをくれたとしても、それで自分が満足することはない。そこで、中途半端に何かに囲まれた状態から離れ、「本当に何もない自分」に戻って考える必要があるだろう。そこからしか、"答え"は出てこないだろう。

 

残念ながら人生は有限だ。なんでも詰め込める訳ではない。だから、最低限なにがあれば良いのかを考えて、こんなはずではなかった、という最悪なことにならないで欲しい、と。僕は無職を経験して良かったと思っている。流石に4年は長過ぎだが。自分でも社会復帰にここまでかかると思わなかった....。

 

あえてレールから外れる逆転の無職論。人間に足りないのは、もしかしたら、この精神かもしれない。

 

ちなみに、この記事は、この本から着想を得ています。

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