ニートの平日

地方国立大卒ニートの生活記録。「え、ニートに平日も休日もないだろ....」という下らない日記です。

【スキルを付けて尖った人間に!】非エリート大学生は差別化して生きていこう!

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ぱくたそ

 

そこの非エリート大学生の皆さん!

大学生活は楽しいですか?

大学が楽しいのは何より良い事です。

が、将来は大丈夫ですか?ちゃんと食っていく自信はありますか?

僕は残念ながら、それが出来ませんでした。

 

僕の就職失敗の原因をまとめると…..

・非エリート

・コミュ障

・目立ったスキルが無い

 

てな感じですね。

 

naocchi3.hatenablog.com

naocchi3.hatenablog.com

 

いやいや、これじゃあ就職できなくても仕方が無いよね…。

特にやりたい事もなくフラフラ~っとテキトーに生きて来た僕が、そんな中で急に就職先を見つけろ、と言われても、まぁ無理がるんですよね…。

 

だから、特に非エリートの皆さんは、専門知識やスキルを付けて、差別化をはかりましょう。

今回はそんな事について書いていきます。

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ダイエットや減量したい人は、食べ物を自分の近くに置くな!

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ぱくたそ

こんちわ。プチ断食で若干の減量に成功したなおっちです。

 

プチ断食の効果はこの辺に書いておきました。マジで効果アリですよ。

 

naocchi3.hatenablog.com

 

減量をしたい人でも、運動が続かないとか、どうしても飯をいっぱい食ってしまう、という人も居るはずです。

 

分かります。僕は飯を食うのが好きなんですが、あればあるだけ食ってしまうんですよね…。

 

あぁ、お腹はそろそろいっぱいだけど、まだおかず残ってる….。どうせなら、もう少し食っても良いかな….。

 

と、少しだけのつもりが、いつの間にか、ほとんど食ってたりとか…。

 

おやつも、中途半端な時間にポリポリと食ってしまい、カロリーオーバー….。

そんで夜に体重計に乗る頃には、「あぁ、またやっちまった….」って後悔しているんですね。

そして、体重計に乗ると、顔は真っ青….。「なんであんなに食ってしまったんだ」と後悔しても遅し…。

食ったモノは帰ってきません。カロリーとして吸収され、いずれ貴方の贅肉となって、あなたの一部となるんです….。

 

それは、彼の弱さにつけ込んで、その一部となり、彼を構成し、徐々に身体を侵食し、彼という人間を飲みこんでしまったんだ….

 

そんなカッコいい話ではありません。プヨプヨの贅肉は、身体の一部というよりは、取って付けたような。ミスマッチなパーツでしかないのです。

 

でもね、止められないんですよね。特に揚げ物とか…。

僕は唐揚げが好きなんですが、唐揚げは無限に食っていられる気がするんです。

誰が何と言おうと、僕は唐揚げと心中したい..。僕は唐揚げを食うために産まれて来たんだ!

と言っても過言ではありません。もちろん無限に食うなんてのはウソですが。

 

じゃあ、痩せるにはどうしたら良いのよ?

 

痩せるのは諦めろ!

 

なんて言いませんよ。ちゃんと一緒に考えます。なんせ、僕はダイエットに2回ほど成功した事があるほどの男ですよ。

裏を返すと、それは少なくとも、2回以上は太っていたことがある、と言う事にもなりますが.....。

 

大丈夫です!ちゃんと痩せる方法はあります。

 

この記事では、そんな「痩せたくても痩せられない」人向けに、現実的に痩せる方法を紹介します。

みんなも一緒に痩せましょう。

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Google翻訳を使って、英語の勉強をしよう。

 

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(ぱくたそ) 

 

こんちわ。なおっちです。

常々言っていますが、日本の政治は終わっています。別に安倍晋三がダメとか、そういう話ではありません。

むしろ安全保障に関しては評価すべきだと思います。しかし、まだ北朝鮮とか韓国には甘いですよね~。まぁ良いでしょう。

 

根本的な体質として、日本の政治は古いモノを守り、新しいモノの芽を摘む傾向にあります。最近もそれを象徴する出来事がありましたね。この辺い書いてあるので読んで欲しいです。

 

naocchi3.hatenablog.com

 

それだと社会が成長しません。周りの国がどんどん新しい事をして、豊かで便利になっているのに、日本だけ置いていかれるというストーリーが、現実味を帯びてきました。

 

その影響もあってか、経済的な成長性も低いです。少子高齢化は止まらず、このままだと日本社会は崩壊するという見方もあります。

そのうち日本は後進国になっているかもしれませんねぇ...。

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健康と集中力の両方を手に入れたい人は、節約にもなる「プチ断食」をしよう。

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(ぱくたそ)

 

せっかくの食事で、健康も集中力も損なっていませんか?

 

こんちわ、なおっちです。

 

僕は産まれてこの方太り気味の体型です。一昨年のバイトを辞めて以降、ニートをしていましたせいもありますが、今ではかなりのデブになってしまいました…。

正直、太りやすい体質なのですが、デブって見た目が良くない上に、重いモノを背負っているので疲れるんですよね…..。デブは良い事ゼロです..。

疲れるって事は、集中力も低下するって事ですよね。肉体的な疲労感は精神的にも影響しますから、仕事や生活のパフォーマンスも低下してくるんです…。

ちょっと動いただけで「あぁ疲れた」って言ってたら、そのあと何も出来ない訳で。

おまけに歳を取ると生活習慣病になる人も多いですね。それって、食い過ぎとか飲み過ぎが原因なんですよね…。

やれやれ、皮肉ですね….。生きるために食事をしているのに、逆にその食事で健康とかを集中力を損なうとは…。コレをカッコ良く言うと、「ジレンマ」とか「パラドックス」と言うんでしょうか…。

 

まぁ良いです。いずれ、食い過ぎとかデブっていう現象は良くない事は分かるでしょう。

んで、それを解決するために、サプリメントと健康食品を買ったりして頑張る人もいるんですが、それも個人差があるし絶対とは言えませんね…。

 

実際、あれだけ多くの種類の健康食品がリリースされているのは、効果が無いからじゃないでしょうか?

だって、何かの商品に効果があったなら、それ以降はそんなに生まれないでしょ?自己啓発本と同じで、その時の「頑張っている感」が欲しくて買うだけで、効果のほどは特に普通、って事じゃないですかね…。って思うのは僕だけでしょうか?

いいえ、みんな気付いていますよね。

 

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日本の政治に期待してはいけない理由と、沈みゆく日本で生き残る方法とは?

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政治って本当に期待出来ないんだなって思いました。

政治家は自分が飯を食うために、自分にお金を出してくれる人達の利権を守りに走り、業界人は社会の進化よりも自分達の保身のためにお金を出す。

政治とは、この行為でしかないんですね。まぁよく言われる事ですが。

 

マニフェストでは「国民の生活を守る」なんて言うけど、実際は「自分の生活を守る」なんですね。正直に言えば良いのに。

 

まぁ、それは何となく分かっていた事です。

しかし、利権を守る行為を、議員がSNSに堂々とアップしているのもビックリです。

それはつまり、国民の生活を良くするよりも、ある団体の既得権を守ることが、世間的には暗黙の了解となっていて、別に大した問題ではないという事ですから。

それが当たり前になっているって、もはや国として終わりだと思うのですが。共産主義みたいに、社会の循環が止まり、いつでも物不足とか、そんな事になりそうですね。

 

やれやれ。もはや政治には期待は出来ませんな。

利権を必死に守った結果、競争に置いていかれる、先進国の中でも遅れをとるというストーリーが出来つつあるのですが(既にそうなっている)、その中で日本人はどう生きれば良いのでしょうか?

沈み行く国での生き方を考えていかないとダメですね。

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「自由」とか「生きる事」とかに疑問を持つ僕が、それをポエムっぽく書く。

やれやれ....。

春の風と匂いが、僕に何かをしろと呼びかける。

太陽の出る時間は長くなり、昼も明るくなってきた..。

それはこの僕に、「いつまでそうしているんだ?」って問いかけるようで、凄く鬱陶しい..。

春を嫌いになったのは、いつからだろうか?

寒い地域の冬を凌いだ、あるいは生き抜いた者からすれば、春というのは喜びの季節だ。

しかし、僕にとって、それは、いつからか「何かを強制する強迫観念」でしかなくなった....。

そもそも誰でも積極的に行動したい訳ではない。内に籠って一生を暮らしたい人もいる。

しかし社会はそうはさせてくれない。時に人間は嫌でも外に出て行動しなければいけない。春は特にそういう季節だ。

人間が社会で行動すると、嫌でも他人との関わり合いになる。それは、嫌というほど他人は自分の居場所に踏み込んでくる事でもある。

しかし、それは、多くの場合、何も与えてはくれない。逆に時にそれは大きな爪痕を残して去っていく事もある。

「なぜ、あの人はあのような事を言ったのか?」とか、「彼はなぜこのよう事をして去っていったのか?」など、こちらが求めてない行為について、時に深く考えなければいけない。

また、好き嫌いに関わらず、自分も時に相手の所へ入っていかないといけない。そこで遭遇したくない状況に出くわしても文句は言えない。好き嫌いに関わらず、それは訪れるのだ。

 

人間社会は好き嫌いに関わらず、他人と自分が大事な所に侵入したり、あるいは侵入されたりして、時に大事なモノを取ったり取られたり、損傷したりされたりしながら、生きるシステムになっている。

その行為は「コミュニケーション」と言われたりもする。それは人間社会の営みを円滑に進めるためのツールだ。

しかし、上手く生きるための道具が、逆に人をすり減らせ、時に生きていくのも困難になってしまう程にさせる。これは皮肉というかジレンマというか....。

何でそれをしなければいけないのか、考える猶予もなく、春はそう呼びかける。「君は社会に出て、好き嫌いに関係なく、社会を上手く回すためのコミュニケーションをしろ」と。

 

僕は大学のある時までは、春という季節は外に出て自由な気にさせてくれる時期だと思っていた。

しかし、ある時から、その「自由」というのに、逆に困惑するようになった。

それまで、学校あるいは、大学という緩い縛りが、僕を”適度な不自由”にさせていた。

その”適度な不自由”に慣れ親しんだ僕にとって、それは、ある意味では、それは最も適度な、僕という人間が扱える”自由”だったのだ。

つまり人間にとっては、ある程度は不自由な方が、生きるには最も最適なのかもしれない。

例えば、学校では生徒たちが自由を求めて大人に反抗する。しかし、一方で、上級生たちは、下級生たちを自分たちで決めたルールの下に支配し、優越感に浸っている。

そして下級生たちは、上級生が作ったルールに従っておけば、自分たちには責任を問われる事はないと安心している。

彼らは自由を求めているフリをして、実は心の底から本当の自由が欲しかった訳では無いのだ。

そして生徒、学生たちは、学校を卒業すると、従属する場所、つまり不自由を求めて就職先を探す。

これは何とも不思議な行為である。会社に入るというのは、ルールに従う場所に入るという事だ。

会社だけではない。人間を不自由にさせる場所は他にも多くある。それは家庭だったり、配偶者だったり、時に住む家だったりする。

普段、自由を声高に叫ぶ我々人間は、社会の中で生きるために、自らを不自由にするモノを求めて彷徨い歩くのだ。

自ら縛られるために、自分で不自由な場所を探し求める..。人間は、やはり完璧に自由では生きられないようになっている。これは間違いないだろう。

人間の”不自由を求める”というのは、ある意味、上手く生きる上では必須になっている、と言うのも事実である。人間自身が勝手に、不自由を強制するルールを作っているのだ。

どこの集団に所属するかとか、どこの地域に住むのかとか、その”不自由先”を上手く選べるかどうかで、生きられるかどうかは決まってくる。

自分を不自由にする会社を上手く選べれば、「〇〇会社勤務」という形で肩書が与えられ、言わば「社会で生きる権利」が得られるのだ。

同様に、自分を縛る家庭や配偶者を選んで、「家族」という集団を所有すると、上手く自分を不自由に出来た事になる。すなわち、「立派な人間」と評価され、社会では一流と言われる節がある。社会とはそうなっているのだ。

 

言うまでもなく、完全に自由で生きられる人間は少ない。それは物凄く優秀な人間しか実現できない事だ。

完全な自由は、多くの人間には大きすぎて扱いきれない。身の丈に合わない自由は、逆に人を苦しめ、孤独にさせる。「あぁ、こんなモノ、何で選んでしまったのだろう?」と、人を後悔させる時だってあるのだ。

多くの人間、つまり自由を扱いきれない人々は、何かしらの形で、自らを不自由な環境へと追い込む。

それは、自由を扱えない人間が、上手く生命を延長させる術であり、彼らにとっては居心地が良い場所なのだ。

「ちょっとくらい不自由な方が責任からも逃れられるし、自分で考えなくても、誰かが勝手に上手く物事を運んでくれるから、それに乗っかる方が良いよね」。というように、人間には、自由というのは荷が重すぎるのだ。

 

しかし、上手く”不自由先”を選べず、自由さえも使いこなせない人間はどうなるのか?

その人間は社会不適合と言われ、時に社会からは抹殺され、生きる権利すら失ってしまう。

自分から”普通”に生きる権利を放棄しているのだ、という批判もあるだろうが、必ずしもそうではない。自由を使いこなせるほど優秀ではないけど、ある事情で不自由な環境も選べない人間もいるのだ。

学校で理不尽な目に遭った人などは、その後の人生における影響も少なくないだろう。その後、人生を”普通”に生きられないはずだ。

そのような人間にまで、「自己責任」のレッテルを貼るのは違う。小さい時に与える影響は大きい。

人間はその人の数だけ事情があるもので、一言でその人間を言い表すことは出来ない。

その人にはその人の背景がある。もしかしたら、過去の様々な事情で、生きている事を苦痛に感じる人もいるだろう。

そのような人は、”不自由”になる事も出来ず、自由を使いこなすのも難しい。どこへ行く事も出来ずに、ただ息をする事を強いられるのかもしれない。

そうなった時、人間は暗い闇の中で、ながく出口の見えないトンネルの中で、光が見えぬまま、彷徨い歩くか、黙って立ち尽くすことしか出来ないのかもしれない..。

それは想像以上に難しい。人間は何もない場所で一人で居る事に耐えられない。宇宙飛行士になる人間は孤独に強い人間である必要があるらしいが、それと同じだ。

つまり、暗い中で一人、どこへ行く事もなく、彷徨い続けるという事なのだ。

 

生きるとは、それだけで苦境を伴う行為である。産まれたばかりの人間が輝いて見えるのは、過去という重荷を背負っていないからだ。

歳を重ねる毎に、人は輝きを失う。徐々に昔に問われて、色が限りなくグレーに近くなって来る。時に過去に飲み込まれたまま、もう戻って来なくなる事もある。

重くて黒い過去を抱えた人は、それが一生付きまとう。その中で、生きる喜びが生きる苦しみを上回ってしまった時、どうなってしまうのか?

その時、人間は普通に生きることは出来るだろうか?通り魔などの事件を起こす人は、おそらくこういう心境なのかもしれない。

よく、「生きている事に感謝しろ」と言う人間がいるが、それは器用に生きられない人、つまり”適度な不自由”を見つけて所属する事が出来ない人間には、それは押しつけがましくて一方的な、鬱陶しい言いがかりでしかないのだ。

僕も言われた事が何回かあるが、では、この痛みは何だ?この痛みが、お前に分かるか?「もし分からないんだったら、そんなの強要するんじゃない!」と、喉まで出掛けた言葉を飲み込んだ事もある。

産まれてくるのは自分の意思では選べないし、我々はたまたま生きているだけだ。別に対した意味はないし、死ぬときは死ぬ。

呆気なく心臓の動きを止めてしまい、生きていた事すら忘れられてしまう。人が生きるなんてせいぜいその程度の事で、そんな大袈裟な事では無い。たまたま親が交配をして、運よく種と卵がくっ付いて、産まれ落ちるだけだ。

そこに「感謝」などというものを介入させないで欲しい。

 

話は少し逸れるが、先日、8年目の震災の日を迎えた。震災で亡くなった人には、せめて安らかに眠って欲しい。被災地の復興が早く進む事も祈っている。

僕が住んでいた県でも、少しは被害があったから、完全に他人事とは言えない。僕も不便な想いをした。

しかし、それは自然災害であり、人間にはコントロール出来ない要素が多い。むしろ、人間は自然に生かされている部分が多く、8年前のアレは、その自然がたまに暴走したくらいの程度だ。

その災害で、あたかも自然を悪党呼ばわりする風潮に、どうも僕は納得がいかない。先にも書いたが、死んだ人や被災地を悪く言う訳では無い。

地球で生きていたら、それは避けられない事だ。日本は災害の多い国かもしれないが、世界のどこの行っても災害は起こるし、亡くなる人もいる。それは残念な事だが、避けられない。

明日、自然災害が起きて死ぬ確率を、我々人間は誰でも抱えている。程度の違いはあれど、その点で人間は平等なのだ。治安や経済状況などは除いて。自然の前では、人間は無力なのだ。

8年前の震災は、「ワハハ。ざまぁ見ろ人間!お前たちの命は私が預かっているのだよ。その気になれば、いつでも全員を消すことが出来るのだ。そこに君たちが築いてきた社会や高尚な研究の成果など、意味がないのだよ。あまり思い上がらない方が良い」と警告されているようだった。

8年前、雪が降る中、自転車で家路を急いでいた僕は、突き刺す寒さと地震の大きさに困惑し、僅かに残った冷静さと思考力の範囲で、こう考えていた。

やはり辛い事の方が記憶の賞味期限は長いようだ。いずれ我々は、たまたま生きているだけなのだ。そんなに大袈裟な事では無い。

 

そこで、僕は思った。「生きている事への感謝」などは不要だ、と。

 

僕らは好むと好まざるとに関わらず、2人の親が結合して産まれて来ただけだ。そこに生まれて来る人間の意思は無い。

そして、たまたま産み落とされて、好き嫌いに関わらず、他人との侵略のし合いで消耗する。

そして、人間の決めたルールに従い、自分を縛り付ける場所への所属を求められ、出来ない者は「社会に適合していません」という札を貼られて、暗いトンネルの中をただ歩くだけを強いられるのだ。

好き嫌いを問わず産まれてくるのに、その補償は誰もしてくれない。ただフェイドアウトしていくのだ。

 

自然には偶然生かされているようだが、それにいつ殺されても不思議では無い。津波地震で大事な人を殺され、悲しみに暮れなければいけない時もあるし、自分が死んで大事な人を悲しませる事だってある。結局、自然と人間は、そういう意味ではイコールな関係なのだ。

結局、人間が生きているのなんて、そんな偉大な事ではない。人間さえいなければ戦争も起こらないし、好むと好まざると産まれて来た人間たちで、わざわざスゴイ兵器作って命を奪い合う事もないだろう。

動物と植物の食も連鎖だけで世界は完結するかもしれない。その方が、むしろ平和だろう。

変に頭の良い生き物が、あの手この手で命を奪い合う社会より、本能に忠実で「食いたければ食う」という社会で動物たちだけで暮らしていた方が、良いのではないだろか?

 

もう一度言う。生きている事に感謝なんて、する必要はない。我々は。好むと好まざると、たまたま産まれて来ただけなのだから。

人生が楽しい人は勝手に感謝すれば良い。重いモノを背負ってしまった人に、そんな鬱陶しいのを更に背負わせるのは可哀想だろう...。

 

やれやれ....。自由とか生きるって、面倒だぜ。いったい誰がこんなの考えたんだろ?

 

3月11日が来るたびに同情を求めて来る風潮が嫌いです。

初めに言っておくが、この記事の内容は震災の悲惨さをポエムっぽく表現するものでは無い。むしろ、被害に遭った人や、近親者などを無くした人からすると、少し不快に思う人も居るかもしれない。

ただ、僕も一応その近くに住んでいて、かなり不便な思いをした。その立場から、このような内容の記事を書かせてほしい..。

 

また今年もこの日がやって来た。

冬の寒さがまだ残っているけど、どこか埃っぽくて春の匂いがする。

東北の3月はそんなものだ。そして、8年前のあの日も同じだった。微妙な明るさと、砂埃や花粉が混じった匂い、春を喜ぶには少し早い寒さがあった。

僕が住んでいた地域では、午前中は晴れ、午後は微妙な曇り空となっていた。

実家から少し離れた高校に電車で通っていた僕は、部活動のために春休みでも学校のある場所まで来ていた。

 

まだ雪が残っていたので体育館で練習をした。少し変わり者の指導者の下、その日も少し理解に苦しむ練習で混乱したような気がする。

その日の前、僕はそんなに仲良く無かった、当時の高校一年生のクラスの集まりに行っていた。まぁ同じ部活の人間もいたし、そこそこ面白くはあったが、そのあと彼らとは遊んだりはしていない。

その翌日、部活が終わった僕は、同じクラスの人間ともう一度カラオケに行くことになった。

当時歌っていたのは、今見ると「あぁ懐かしいなぁ....」と思う楽曲ばかりだ。それらの曲のMVを見ても、「あぁ昔だな」って思えるのだ。衣装やメイク、撮影セットなどを観て、時代を感じることは誰でも一回くらいはあるだろう。

居酒屋や定食屋で、アサヒビールのイメージガールが水着姿にビールを持っているポスターを貼っているのをよく見かけるが、まさにあんな感じだ。「あぁ昔だな」。当時、僕たちが歌っていた曲は、8年の月日が、すっかり風化させてしまったようだ。

しかし、一方で、8年という月日は、僕の中ではあっという間、つまり大したモノでは無かった。その間に色んな事が変わってしまったのだ。言うならば、僕は時間に取り残されたのだ。

僕が何となく時を過ごした一方で、社会は常に針を回し続け、時を刻み、当時の出来事を置き去りにしてしまったのだ。時間というモノの残酷さをここまで感じる事は無い。世の中は残酷にも進化し続け、当時の流行っていたモノなんて、今は跡形もなく消えようとしている。

 

しかし、自分の中では短かった8年間だったが、記憶というモノはあまり長続きしないらしい。

その間に就職失敗とか色々あった僕は、既にその時の事を上手く思い出せなくなってしまった。少なくとも、100%正確なその時の状況は、もう頭には残っていない..。あるのは断片的な内容の曖昧なモノだけだ。

 

自分の中では最近の出来事だと思っていても、記憶は経過した月日の長さを正確に示していた。

時間の流れと自分の間にギャップを感じたら、まずは当時の記憶の探ってみると良い。瞬時に当時の事を、ある程度正確に思い出せなかったら、それは経過した時間が長い事を示している。

自分が「あれは最近の事で...」なんて言っても、記憶という第三者は冷静に判断を下す。「それは違う。お前がそう思っている、そう思いたいだけだ」と告げるのだ。

それに抗っても、あまり意味はない。それほど記憶というのは、8年の長い間に進化しない僕に、正確かつ客観的に経過した時間の長さを教えてくれた。あぁ無情無情...。

 

そのカラオケの最中に、ついに事は起こった。ある人間の歌唱中、ある人間の携帯電話から、危機感を煽る、あまりに不快な音が鳴り響いた。

当時は折り畳み式の「ガラケー」が主体だったのだが、聞いた瞬間に自分の耳を疑うような、胸からゾクッとする音...。あれはスマートフォンになってからでも変わらないようだ。

その音が鳴り、数秒後、地鳴りのような「ごごごごぉぉ~」という僅かな音がした。その後、いきなり大きな揺れに見舞われた。

カラオケ店の天井からは埃がズザザ~と流れ落ちて来た。おそらく建物を構成していたコンクリート地震によって擦れて落ちて来たのだろう。それだけで、この地震の大きさは何となく分かった。コレは大変だぞ、と。

 

店員の「早く出て~」という悲痛な叫びが聞こえていた。女性の店員の声だ。そのカラオケ店の店員は見た目も振る舞いも褒められたものでは無かった。愛想というのはほんの申し訳程度、弁当のおかずの下に敷いてあるパスタにも及ばないレベルの、そういう人間だった。

そんな彼女たちが、大声で「早く出て」と、自動ドアを必死に抑えながら叫んでいるのを見ると、僕は「コレまたヤバい事態だな」と事の大きさを実感した。

彼女たちの表情に、人を馬鹿にしたり騙したりするような意図は感じられない。客の中には、震度6の地震があっても、ヘラヘラしてスグに逃げない人間も居たため、彼女たちも感情的になったのかもしれない。

擦れた女が、必死に助けを求めるようでもあった。僕は彼女たちを見て、とりあえず外に出ることにした。走ってカラオケ店の外に出た。

 

外に出ると、わずかに看板や建物、クルマ揺れているのを確認した。県庁所在地では無いものの、国道沿いで、チェーンのファミレスやファストフード、ブラック労働で知られるアパレル店などがあったため、建物が崩れたり、看板が落ちて来る心配も少しはあった。

 

周りからは叫んだり怖がる声も聞こえて来たが、僕はあまり騒ぐ気にはなれなかった。騒いだ所で災害は止めようがないし、復旧が進む訳でも無かった。

むしろ、被害状況などが聞こえずらくなる事もあるし、僕らが騒ぐ事は意味がないのだ。それに僕は騒がしいのがあまり好きでは無い。どちらかと言うと大人しく目立たない事をしていたかった。そこには、まぁどうにかなるだろう、という楽観的な期待も含まれていた。

 

しかし、その期待は木端微塵となって裏切られる事になる...。

いつまでも復旧しない電気、動かない電車....。足止めを食らった僕は、駅で運行再開の連絡を待ったが、一向にその気配すら感じない。

カラオケを切り上げて数時間。結局、僕は帰る手段すらなく、自転車で帰る決断をする。変速機の無いママチャリで、20キロ先の家路を自転車で目指すことにした。

11日は3月にしては冷え込む日だった。日が暮れると雪が降りだし、部活のダサいジャージ姿の僕を、刺すような寒さが襲った。

アップダウンの激しい国道を走る。時々、寒さで足が動きずらくなっても、手が凍りそうになっても、僕はチェーンを動かして車輪を回す行為をやめない。ただ、そこには、少しでも早く暖かい所に行きたいという気持ちがあった。

僕が住む街につくと、街灯は消えていた。田舎出身の僕でも、コンビニと信号の明かりが消えた所を観たことが無い。どんなに遅い時間でも、何らかの明かりが点いていて、「僕はまだ活動していますよ」と、道行く人の心を少しでも安心させるモノだと思っていた。

しかし、その時は、その僅かな灯さえもも無く、僕はこの世界にただ一人だけ残されたんでは、という不安感に襲われた。ゾンビ映画で街が壊滅的な状況になるシーンがあるが、それとも少し違う感覚だった。何もなく、一瞬にして社会が活動を停めた感じだった。

 

家の最も近くにあるコンビニ(直線距離で500mくらい)に立ち寄ったが、そこでも店の明かりは無かった。店員が電卓を打って、商品を販売していた。

カップラーメンなどのスグに食べられるモノは棚にはほとんど無かった。韓国産の辛いラーメンだけが残っていたが、災害時には辛いモノを敬遠する傾向が人間にはあるのかもしれない。

 

家に着いたのが午後8時。学校の最寄り駅を出て、約2時間。20キロの距離を自転車で移動すると、平均的な所要時間は大体それくらいで落ち着くだろう。個人差はあるが、チャレンジしたい人はぜひ試してもらいたい。

 

家に着いても、僕が期待していた暖かさは皆無だった。冷え切った玄関には何も無い。僕はかなり空腹を感じていたので、棚にあったとんがりコーンを食べて、それを凌いだ。携帯電話を見ると、僕の身を案じた親からの着信が入っていたが、雪降るアップダウンの激しい国道を20キロ走っていた僕に、それに応対する余裕は無かった。

記憶が曖昧になって、社会と自分の距離がどんどん出来ても、あの時の記憶は、今でもわりと正確に思いだせる。自分でも、アレはよくやったと今でも思っている。

 

さてさて、家でも電気が止まったので、僕は震災の被害の状況を、2~3日後に目にする事になる。

ラジオでは津波が襲ったとか、そんな情報が入ってきた。津波なんて、まぁ少し街が浸水する程度だろうと思っていたが、テレビでやっていたのは想像をはるかに超える状況だった。リアルで津波の被害を観たのは始めだった。

意外にも、電気が通っていた関東や関西以西の地域だと、震災の津波をリアルタイムでテレビで見られたらしい。何とも皮肉な話だ。近くの人間ほど、その情報に触れられないとは...。

当時は「〇〇が〇〇らしい」という人づてに情報が流れてきたりで、それが正確なのか間違っているのかを検証するコストが掛かる。電気もなく、ネットも遮断された時、情報を精査することは恐ろしく難しい。

幸いにも水は出たしガスも付いたので、僕は20キロの道のりを自転車で、寒い想いをして走ってきたくらいで済んだ。家の水とガスが止まっていたら、どうなっていたか分からない。

 

被災の状況は悲惨だ。それに疑いは無い。しかし、復興も進んでいるんだか分からない。

少し話は逸れるが、復興の名の下に開催する東京オリンピックも来年に迫ってきた。とても復興に繋がるとは思えないのは僕だけだろうか?

東京でオリンピックをやるのは良い。しかし、国のお金も使って1兆円くらいの赤字を見込んでいるという。そのうえ、本来は復興に必要な人材が、オリンピックの施設を整備するために使われているという話もあるらしい..。

僕は反政府論者でもないし、政府ベッタリの人間でもない。いわゆるノンポリと言われるポジションの人間だ。開催するのは勝手だし、華やかで面白いモノでもあるのは分かる。

が、それを「復興五輪」と銘打って、果たして良いモノか?やるにしても、ムリなこじつけは辞めてもらいたい。

進んでいるのか進める気が無いのか分からない被災地の復興...。真面目に復興させたいなら、オリンピックではなくそちらにリソースを割くだろう。要は、東北の田舎など、まぁ二の次だという事だ。

それも、政府としては合理的に国を経営していく手段なのだから、仕方が無いのかもしれない。別にオリンピックにも政府の方針にも、文句を言う気はない。会社で言うと、採算部門にお金と人材を割くのは正しい事とされる。

そして、不採算部門にお金を使うのは、良い経営からは逸脱しているとされる。国と株式会社を同列に扱うのはムリがあるが、「組織の運営」的には、儲かる所にコストを割くのが効果的なのは言うまでもない。

 

しかし、そんな中で、未だに、「震災についてどう思うんだ?」と強気に尋ねて来る輩がいる。僕はこの事に物凄い違和感と疑問を覚えるのだ。

どう思っているのかと聞かれても、大学を出ても職に就けないような僕には、せいぜい「悲惨だし、早急に復興される事を願っています」としか言えない。

僕がお金をつぎ込んで復興を進める事は出来ないし、祈った所で何かが前に進む訳でも無い。それは政府だったり行政の人間たちが行う事である。または影響力のある著名人などが、その気があれば取り組めば良い事だ。

政府が復興を進める気があるのか不明な状況で、一般人に強気にそれを聞いても、意味がない事くらいは、20年ほど生きていれば分かるはずだ。

 

そして、僕の毎日は、現在もあまり面白くないものだ。高校に在学中もフラフラと歩いて、何となく生きて来た。大学に入ると、普通に単位は取って卒業はしたものの、就職という高い壁を突破できなかった。そして、震災の有無にかかわらず、僕の毎日に変わりはない。

そんな冴えない境遇の一般人に、震災の被害について同情を求めるのは辞めて欲しい。それはホームレスの人間に、議員の裏金問題を尋ねるようなものだ。

 

震災について議論したい人は、ぜひ中央省庁の役人や、自民党の人間を捕まえて「お前は震災についてどう思うんだ?」と聞いてみれば良い。その方が明らかに有意義な議論となるはずだ。

被害が悲惨なのは分かる。だが普通の人は、毎日を生きるだけでも大変なのだ。営業先で怒られたり、会社で理不尽な目に遭ったり、学校で人間関係に苦しんだり...。そんな毎日を過ごしている人間が、震災について意見や同情を求められるのは、とても鬱陶しいだけなのだ。

「震災なんて知らねーよ」とまでは行かないが、一人の民間人がそれほど震災について同情したりしなければいけないのか?と疑問に思う昨今。やれやれだぜ....。

 

ではでは...。

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