ニートの平日

地方国立大卒ニートの生活記録。「え、ニートに平日も休日もないだろ....」という下らない日記です。

映画『あのこは貴族』 人それぞれ悩み苦しみがあり、無くなることは無いけど、それを話せる人がいるかどうかが、人生の良さを決めるのかも。

こんにちわ、なおっちです。無職から抜け出したいぜロックンロール。

 

『あのこは貴族』という映画を観てきました。

原作はコチラ。

あのこは貴族 (集英社文庫)

あのこは貴族 (集英社文庫)

 

 

予告編はコチラ。


映画『あのこは貴族』予告編

 

東京のお嬢様と、地方の普通の女の生きる姿を通じて、「人生とは何か?」「女とは?」を問うヒューマンドラマです。

 

東京のお嬢様の華子は、お金持ちの家に産まれ、そのままお金持ちの生活をしています。着てる物、住んでる家、食事など、全てが普通の人とは違います。そこには上流階級とは斯くあるのかという雰囲気と、何処か息苦しさも感じさせます。

冒頭の家族での食事のシーンに、既にそれが物語られています。華子は会場に向かうタクシーの中で妙にダルそうにします。一方タクシーの運転手は「ホテルで会食なんて羨ましい」とぼさっと呟きます。身分の差は本作の重要なテーマの一つです。

花子が到着して家族が揃うと、息苦しさは更に強くなります。華子の親や祖母は、華子に結婚の話を持ち出します。やはり、お金持ちの家だけに、結婚の相手にも拘りがあり、誰でも好きな人と、という訳にはいきません。華子は鬱陶しそうに、その会話を流します。ここから既に、単に金持ちが幸福な訳ではないと読み取れます。

 

話は変わり、今度は地方の女の美紀は、受験勉強で慶応に入るも、家庭の事情により中退を余儀なくされます。

家の周りは田んぼが広がっていて、駅前はシャッターだらけ。衰退した地方を絵に書いたような風景です。

美紀の父親は失業中です。昼間はパチンコに行き、夜は酒を飲んで、妻が作った食事を食べ、その妻はヘラヘラと笑って上手く家庭を回している、という感じです。

こちらも地方の暮らしを画に描いたようです。何処にも逃げ場のない息苦しさ。どこの地方もこんな状況なのかと思うと、日本はもはや終わったと思わざるを得ません。こちらは幸福ではない、というより単なる地獄ですね。いや申し訳ないですが。田舎出身の逃げ場のなさを嫌というほど経験している僕には刺さりました。

 

んで、違う階層の交わるはずのない二人の人生が、とある事で交差します。お金持ちはお金持ちと関わるので、普通は絶対に交わるはずはないのですが。こうでも無ければ、絶対に関われないというパターンで二人は出会います。

 

二人はお互いの状況を打ち明けます。「女は空気を回すサーキュレーターのようだ」と美紀は言います。先ほどの実家の様子がまさにそれですね。美紀の母がヘラヘラと笑ってご飯を出してくれないと、美紀の父は死んでいるわけです(生命的にとメンタル的に)。

 

一般的に感度が弱い男は、女に比べて、それ自体では楽しくなる事が難しいです。「女の翼に乗る」という言葉がありますが、それは女が居ないと男は楽しむのが難しい、という意味です。それが美紀の父であり、美紀の母は言葉は悪いが「空気を回すサーキュレーター」として機能しているのです。

甲斐性を失った男は弱々しく、もはや存在価値すら疑われます。女はそんな男を支えるという...。やはり美紀の家は控えめに地獄な訳です。

一方、花子にしても、女は旦那を支えるものだという価値観に苦しみます。特にお金持ちになると、それが一層強まると。本作の「女と男」というテーマが、ここに現れています。

 

少し話は逸れますが、男もそれ自体で楽しくなれる必要があります。女に依存するのではなく。男は肝に命じておきましょう。自分のために、そして空気を回してくれる女のために、自身で楽しくなれる技術を身に付けないと、どちらも滅ぼしてしまうのです。

 

話が進むにつれて、華子と美紀は心を通わせます。身分違いの女が出会い、「人生とは?」「女とは?」「東京とは?」などを考えます。

美紀と出会い、華子はある重大な決断をします。それは美紀がいたから成し得たことです。最後のメッセージも素晴らしいです。尺の長い作品なのですが、それに相応しい終わり方です。控えめに言って良い映画でした。男でも楽しめますよ。

 

naocchi3.hatenablog.com

 

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