2020年に読んだ面白い本まとめ。
今年も残り僅かになりました。今年も暇だったので本とか読んだり映画を観たりしていたのですが、中には面白い作品が凄く多かったので、ここにまとめて置いておきます。
宮台真司の言う事は難しいけど、これは分かりやすくて面白い。コレをもっと早く読みたかった。「主知主義」「主意主義」とか、知っておくと世の中が分かりやすくなるかも。10代のうちに読んでおけば、少なくとも人生が少し楽になるかもしれないです。若い人に凄くおススメ。
「日本の難点」宮台真司
コチラは10年前くらいの本で、内容は難しくて、全て理解できるわけではないですが、面白い。社会を考える時に良いかも。古本でも売ってますよ。
「オウムと死刑」
オウム教団や事件について、そして2018年の死刑執行について書かれた本です。読んでいくと、死刑は待った方が良かったのかも、と思います。真実を明らかにする努力を、日本は怠っているのかも....。
「A3」森達也
コチラもオウム関連の本です。麻原や教団幹部の裁判について書いています。麻原の裁判は複雑で難しく、村井も死んでしまっている事から、真実が明らかになることは無いのかな....。それにしても、司法はその努力を果たしていないと、本書の中で筆者は真相の究明を求めています。その努力むなしく、死刑が執行され、真実は闇に葬られてしまいました..。残念ですね。
「哲学と宗教全史」出口治明
本屋で冒頭だけ読みましたが、面白いですね。「私たちはどこから来て、何者で、何処へ行くのか?」つまりそれは「人間とは何か?」という問いに変換される訳ですが、それに応えるのが、哲学と宗教であると。筆者はライフネット生命という会社を立ち上げた人ですが、それはこの問いから着想を得ている、と。
つまり、一見役に立たなそうな哲学や宗教も、これから役に立つであろうと本書を読むと思います。特にこれからはAIの能力が人間のそれを超える(シンギュラリティ)が来るらしいので、そこで「人間とは何か?」という問いに、答えを出しておく必要があるでしょうね...。
「幸福の科学との決別」
こちらも本屋でちょぴっと読みました。神の子として産まれて来た人間としての苦悩、父・大川隆法との確執など、けっこう面白い内容でした。有名人の息子、しかも宗教団体の創始者の長男に生まれることは、辛いのだろうなぁと。それでも、実家の教団と決別して俗世で生きていくって強いですよね、とも思います。いずれ芸人としては素晴らしいセンスを持った人なので、今後に注目です。
哲学用語図鑑
哲学の用語集。コレを持っていると、とりあえずの哲学の知識は身に付くでしょう。哲学の入門書。
図解 世界5大宗教全史
こちらは宗教の入門書。宗教の入門本を何冊か読みましたが、コレが最も面白くて分かりやすかったです。ちゃんと宗教を勉強したい人は読んでみましょう。
「方法序説を読む」
ルネ・デカルトの名著「方法序説」の解説書です。アマゾンに無かったので、同じ著者の違う本のリンクになっていますが。解説付きで、デカルトの哲学を理解できます。「われ思うゆえに我あり」の真意とは?合理主義者デカルトの哲学が偉大であることが分かるでしょう。
「方法序説ほか」
途中まで読みました。方法序説の他、世界論、哲学原理を収録。冒頭の解説も分かりやすい。
「社会学用語図鑑」
こちらは社会学の入門書になります。社会学の勃興から現在に至るまで、大まかな流れと重要語句を網羅。我々が生きる社会を見る社会学はザックリした学問ですが、「社会」の知識を得てから生きていくと良いかもね~。
「絶歌」
コレを読むという事が凄くタブー視されていますね。まぁ確かにそうか....。でも読んでしまいました。これが人間というヤツか...。
読んでいくと、彼も普通の人間なのかもしれない、と思えてくる。でも、それを思う事はいけない事だとも思える。やった事はダメだけど、元少年Aの人間らしい姿が思い浮かんでしまう..。さて、どうすれば良いんだ。
「村上春樹の100曲」
村上春樹の小説に出て来る音楽を紹介しています。楽曲が、村上春樹の作品の中でどのように扱われているのか、その音楽が作品の中で意味しているのは何なのか、など、知ると面白いですよ。特にノルウェイの森の所を読むと、あの作品はそういう意味だったのかもという、別の見方が出てきます...。音楽はただのファッションではなく、アイコンあるいはメタファーの役割を担っているのです!
今年はコロナに振り回された年でしたが、僕は無職なのでずっと安定してました。めでたいのかのかは分かりませんが、皆さんも暇なら本でも読んで時間を潰しましょう。では。
映画『生きているだけで、愛』感想 日常の何気ない毒をテーマにしたメンヘラ映画だバーカ!
こんにちわ、なおっちです。コロナ禍でも無敵の無職ロックンロールを謳歌中です。
人間、生きるために働くのであって、働くために生きている訳じゃねーんだよボケが。そんなに俺に働いて欲しいなら、俺に仕事持ってこいカス!
という事で、日ごろから映画を観ているのですが、この前はこんな映画を観ました。
公開時に話題になりましたね。先日アマゾンプライムに追加されたので見てみました。
主役は菅田くんと、趣里という女優です。何と大物俳優の娘だそうですが、実力のほどは....。
お話は、メンタルに問題を抱えた寧子という女が週刊誌の記者の津奈木と三年間同棲していたが、しかしその後に寧子の前に突然、津奈木の元彼女が現れたのをきっかけに、二人の運命が崩れていく....という感じです。
さて、まず冒頭いきなり、寧子というメンタルを病んだ女が出てきます。この女が週刊誌で記者をしている津奈木という男と同棲しています。三年前に飲み会で出会い、潰れた寧子を送っていったら、そのまま一緒に住むことになったて、ちょっと微妙な感じもしますがね。その辺をもう少し詰めれば傑作になりえたんだけど、そのいい加減さは「作り込まないこと」でかえって日常を表現、という事でしょうか。
人生そういう事もあるよね、という。たまたま飲み会で一緒になっただけなのに一緒に住むことになる、という偶然性とも受け取れなくも無いですね。
んで、この寧子はメンタルを病んでいます。何でメンタルを病んでいるかと言うと、これまた明確な言及はありません。ここに10分くらい割いて2時間にしても良かったんですよ。でも、それをしていない。おそらく、寧子がメンタルを病んだ理由として、「何となく」が適当なのかな、と。
明確な理由というより、日常の何気ない毒がグサッと刺さりやすい少し自意識が強い(あえてここで過剰とは言わない)性格で、それもあって今に至る、という風にも受け取れますね。これも作者の意図と受け取れます。この記事のタイトルにも書きましたが。
寧子と津奈木が出会った頃のから、寧子は抑えの効かない行動を見せます。いきなり走ってみたり大声で叫んでみたり、自販機のガラスをぶっ壊してみたりと、”何か”普通ではありません。この辺は感情の抑揚が激しくて凄く難しいんですが、趣里の表現が見事です。才能の片鱗を余すことなく見せてくれます。
寧子は養ってくれている津奈木に対して、物凄く横柄です。「部屋は掃除しないのか」とか、住まわせて貰っているのに敬意すらありません。どうして津奈木はこの女を養っているのか不思議です。でも、そこも世の中の不思議さで、そういう人もいるという事なんでしょうね。自分なら、という枠に当てはめてしまいがちですが、世の中は複雑で、そもそも理解できないものなんですよね、と教えてくれます。コレがサスペンス映画とかだったら作りが雑過ぎてダメですが、ヒューマンドラマだから、あえてこうしなければいけないのかも。
不確実性、何気なさ、デタラメさ、偶然が、最近の日本映画のテーマのようにも思えますね。ここを上手く表現出来るかが制作側の腕でしょうね。
メチャクチャな寧子と大人しくて真面目な津奈木の生活にも、変化が訪れます。津奈木の元彼女が、寧子の元に現れます。「何で貴方が津奈木と一緒に住んでいるの?」と寧子に問い詰めます。元彼女は寧子に負けず劣らずのメンヘラで、「あなた私のことバカにしているでしょ?」とか、「私は必死に汗を流して働いているのに、あなたは恥ずかしくないの?」と、ヒステリー全開で寧子を追い詰めます。仲里依紗が演じていますが、流石というか良い役者ですね。
寧子が働かなずに津奈木に養われているのを気に入らない元彼女は、寧子に働くことを提案します。寧子は喫茶店で働くことになるのですが、これが悲劇を生みます。終盤の同僚との食事シーンで、何気ない毒が容赦なく、寧子を襲います。何というか「お前は何だかおかしい人間だけど、まぁ俺たちは優しいから面倒見るよ」的な、”普通”の人間の優越感が、寧子には辛いんでしょうね。寧子は自意識が強くて、相手の意図以上に感じてしまうし、それを上手く隠そうと上手く振る舞おうとするけど、かえって上手くいかなくて、更に辛くなってしまうという悪循環に陥り....。社会不適合の人には、このシーンは見ていて辛いはず。痛いほど共感してしまって、本当に寧子みたいになってしまうかも.....。注意です。
同僚との会話で完全に寧子は壊れてしまいます。そこで津奈木と会い、寧子は自分の想いを正直に話します。ここでの寧子の感情の表現が素晴らしいです。趣里は間違いなく大物になるでしょう。
この記事のタイトルは寧子の言動を真似て書きましたが、寧子って言う事が荒いわりに色々と感じやすくて、凄く僕にも刺さるんですよね、という事を表現してます。社会の難しさ、複雑さ、何気なさ、最近の日本映画のテーマを良く踏まえた良作でした。
この映画は、以下の映画が好きなら、尚更おススメです。
・リップヴァンウィンクルの花嫁
・二重生活
映画『長いお別れ』 歳を取ること、リタイア、ボケ、死を体験する時の入門。
こんにちわ。なおっちです。
コロナ渦でも無職で無敵です。この前も採用面接に落ちました。一旦採用にしておいて電話で不採用を告げられ殺意が沸きました。
さて、この前は、こういう映画を観ました。
『湯を沸かすほどの熱い愛』の中野量太監督による、4人の普通の家族の、よくある普通のお話です。
『湯を沸かす』は、オダギリジョーのダメ男っぷりが面白くて、しかも死を題材にしながら爽やかな涙を誘発するという素晴らしい映画でした。未見の方は是非。
さて、では話を本作に移しましょう。
四人の家族は、長女が嫁に行き、残りの三人で普通に暮らしていました。
しかし、元教師で今はリタイアした父が、ボケ始めます。認知症です。
んで、嫁に行って今はアメリカに住んでいる長女と、夢や結婚が頓挫した人生が上手くいかない次女、嫁、そしてボケた父の、ちょっと微妙な、その後の人生が始まります。
山崎努演じる父は、元教師で校長先生までやった、言わば少し偉い人です。そんな彼がボケて、家族に負担を掛けながら暮らすことになります。
一説によると、学校の先生とか、会社で少し偉くなった人とか、リタイア後が大変らしいですね。職場での感覚が抜けないのか、日常生活でリタイア前の癖が出てしまうとか。そういう人が、家や外出先で態度がトラブルを起こすとか、多いようですよ。リタイア前後のギャップとでも言いましょうか。あくまで聞いた話ですが。
んで、この父も例外ではなく、認知症となり、徘徊やスーパーで万引きをするなどのトラブルを起こします。遂には介護が必要なります。
んで、それは家族にも影響してきます。嫁に行った長女は特に、アメリカから父を気に掛けるのですが、自分の家族の事もあります。その辺が難しいなぁと。男なら自分の実家は大事にする必要がありますが、女だと旦那の両親の世話をするのが一般的で、その辺が。この難しい立場の役を竹内結子が演じています。この時なにを考えていたんだか。
本作はよくある家族の死をテーマにしています。校長先生まで務めた父が認知症によってボケて来て、万引きをしたり徘徊して周りに迷惑を掛ける所は、見ている側としては痛恨の極みです。それは山崎努のガッチリした体格と険しい顔立ちと対照的に映ります。この対比は製作の意図でしょう。
間近で見る家族なら尚更、外見とは真逆の現役時代とは程遠い彼の姿は、頼りなくて情けなく思えるでしょうね。その時の痛みというのは、どれ程のものか、やはり想像は出来ても生で体験するのは違うのでしょうね。
いずれ本作は、人が衰えることと、死ぬこと、それを見ることの痛みを感じさせるには充分すぎます。リタイア、衰え、死を、どう受け入れて反映させていくのか。その実存的な問いを、痛みと共に運んできます。でも、このようなのが、死を体験する事の第一歩になるんです。
元校長の父と、その家族はどんな選択をするのでしょうかね。元校長という偉い人の象徴とも言える人間のその後は、案外難しいのかもですね。今まで人から先生と呼ばれて来た人間は、無条件に人から尊敬されてきた(と少なくとも自分では思うことが出来た)のが、その後にそれが無くなると、バランスを崩してしまうのか、僕は少なくとも関係があると思っています。
身体も頭も動く時から、加齢につれて両方微妙になるけど、それも含めて人生です。ここが抜けてる人が多すぎます。社会に出て、偉くなった人は、意外とここが盲点になるのかもしれないです。
いずれ誰にでもリタイアやボケ、死が訪れます。リタイア後の生活は現役時代とは違います。ちゃんと想像しておかないと、ギャップに耐えられなくて痛い目に逢うかもしれません。
退職後、時間だけあるのは辛いでしょうね。だから、バイトでもして死までの時間を潰すのか、お金があるなら上手くそれを使って終末を楽しく過ごすのか。ただ家にぼおっとしているのは、やはり夫婦的にも良くないでしょうね。
そんで、どうやってリタイア後とか死について考えるかというと、映画を観たり本を読んだりして免疫を付けるとか良いでしょう。世の中こういう事もあるという事を、あくまでもフィクションとしてでも脳の中に植え付けることで、現実世界への免疫になります。その為に映画や本はあるのですよ。
規制ばかりで、芸術から毒が無くなったら、人はどのように世の中の毒を疑似体験するのか。ちゃんと考えましょうね。
確かハイデガーだったか、「死への存在」つまり死と生、ただ生が続くのはあり得ず、死を意識することで本当の生は始まるのだ、と唱えました(多分)。
生物が産まれて、まず最初に決定しているのは、何より死があるという事です。他の事はその後に付いてきます。つまり、必ず訪れる死を意識させてくれる体験が人には必要なのです。じゃないと生を自覚出来ないと。
どう死ぬかというのもまた大事なんですね。死ぬまでが人生ですから。あらゆる物事には終わりがあって、だからそれをどのように終わらせるか。カッコ良く終わらせたいのか、カッコ悪くても良いからボロボロになるまで生きて終わらせるのか。少なくとも確実に訪れる死にたいして、人間は選ぶべきです。そこまでが、人が生きるということでしょう。
働いて、リタイアして、多かれ少なかれ認知能力が低下してきて、やがて死ぬ。もちろん思い通りには行かないですが、大雑把なイメージくらいはしておかないと、終わりを上手く迎えられなくて、最後に悲しい思いをしてしまうかも。本作は、そんな気付きを与えてくれます。
追伸。個々の役者の容姿について映画評論で触れるのはセンスが無いと思っています。だって映画はストーリーが大事だから。
でも、本作の竹内結子は、なんか良かったな。旦那と子供がいて、でも自分の実家も気になる、難しい立場の長女は、どんな心境だったのかな。彼女、凄く綺麗なんだよな。その人にしか分からないのに勝手に想像するのは失礼ですが、やはり本作の父のような衰えや死に対する恐れが、多かれ少なかれあったのかもしれないですね。あるいは過去に引っ張られてしまったか。
いずれ「死を選ぶ」というのも、また「生き方」なのかな、とチラッと思わなくもないです。彼女の「生き方」あるいは「終わら方」は、そうだった、と思うしかないです。凄く残念ですが、せめて安らかに。
『A3』感想 真実が明らかにならないままオウムは終わってしまった。
この前から哲学とか宗教とかの本を読んでいました。
前はこんな本を図書館から借りてたんですが...。
んで、オウム事件に詳しい、ノンフィクション作家の森達也の、こんな本を読みました。
アマゾンリンクが無いので、代わりに映画版の方を貼っておきます。
本書『A3』は、リンクの映画『A』および『A2』の続きです。
「A」は「オウム」のA、そして「麻原」のAです。つまりは、オウム真理教と、彼らが起こした事件について、そして彼らの裁判について書かれた本となっています。
2018年にオウムの幹部や事件の実行犯など、13人が死刑になってしまいました。これで一連のオウム事件が終わったと、安心した人たちも居たでしょう。
僕も彼らの死刑には賛成でした。いったい何時まで税金で彼らを食わせるんだと思ったほどです。
でも、オウムおよび彼らが起こした事件については分かっていない事も多く、ゆえに裁判の進め方も難しいという事実があります。教団幹部の村井秀夫は逮捕される前に、地下鉄サリン事件の後に殺害されました。また地下鉄サリン事件を麻原が指示したのか、誰が指示したのか、必ずしも明らかでは無いです。また、麻原は一連の事件について、直接は手を下してはいないと。
さらに、麻原は一審の途中で精神状態が悪化し、証言が出来なくなりました。彼から話を聴くことが難しくなると、裁判の進行にも困難が生じます。
しかし、そんな中でも麻原の裁判は進み、一審で死刑判決が下されます。控訴は認められず、一審の死刑が確定してしまいます。本書には、そんな麻原の裁判の問題点について多くを割いて、詳しく書いています。麻原の訴訟能力(裁判を進める能力)について問題があると。
読んでみると、麻原やオウム幹部の死刑に対して、やはり尚早であると思わざるを得ないです。村井が既に死んでいること、地下鉄サリン事件は誰の指示だったのか分からない(麻原は事件前にサリンを破棄するように部下に指示している)こと、麻原が裁判の途中で精神を崩していること、などを考えると、死刑は待った方が良いんじゃないかと。やはり裁判の進め方には問題がありますよね。麻原は糞尿を漏らすほど精神が崩れているのに、それを正常と判断して、死刑にして控訴まで棄却するんだから。
読み進めていくと、教団内での麻原の権力が果たして絶対的と言えるほどだったのか、分からなくなります。麻原は目が見えにくく、情報を集めるのが難しい、だから部下の教団幹部が麻原の情報源となる訳です。部下は麻原に気に入られる為に、「米軍が攻めてくる」などと麻原に報告することもあったようです。部下のそのような情報は、麻原の危機意識を膨らませるには十分だったようで、では果たして誰が教団の中で権力を持っていたのか、明らかではないという事です。
筆者はマスコミの姿勢についても問題があると言っています。国民の危機意識を煽るだけの情報を流すことは危険であると。情報を流す側も、結局は自分の判断で情報を取捨選択している訳ですから、必ず主観が入る訳です。ニュースは視聴率が欲しいから、やはりマス受けする情報に加工されると。それを人々は「主観」に頼って消費しています。これを筆者は「主観からは逃れられない」と言っています。本当ですね。客観なんて、無いんですね。
読んでいくと、オウムについて、いずれ分からない事が多すぎる事が分かるでしょう。村井が死んで、100%確かな情報は得られませんが、それでも司法は真実を求める努力をして欲しかったです。「平成の事件は平成のうちに」的な力が働いたのか、もう叶わない願いになってしまいましたね。残念です。もちろん事実が表明されたら、死刑はやむなし、とは思いますが。
そもそも、このような事実を知っていた人が、果たしてどれだけ居たのでしょうか。多くの人が知らないまま、死刑賛成多数という世論を作ってしまったのではと考えると、マスコミも怠慢を思い浮かべずにはいられないです。
彼らのようなのが再び出て来た時に、どうすれば良いのか分からないまま、日本は更に不安定な時代を迎える事になります。さてさて、日本はどうなるのかな....。
『実録・あさま山荘への道程』感想 閉鎖したコミュニティは過激化して目的を見失うよね。
こんちわ。なおっちです。
この前はこんな映画を観ました。
あさま山荘に立てこもった日本赤軍(連合赤軍とも言うらしい)方から見た、あさま山荘事件を描いています。
あさま山荘事件って、あの鉄球のヤツですよ。警察がデカい鉄球をクレーンからつるして、建物を破壊して侵入した所が、最高視聴率80%だったとか....。
警察側から見た方はコチラです。わりと有名かな....。
んで、本作は革命する側から、あさま山荘に至るまでの道筋を描いているのですが、まぁロクなモノでは無いという事が表現されている訳ですね。
「総括」という自分や組織の活動を振り返ることを通して、個人や集団の士気を高めて、共産主義を実現しようという思想の下、彼らは活動しているんですが、コレがどうも怪しい。語られるのは精神論だけで、具体的にどうすれば革命が実現出来て、革命後はどうすれば国を上手く運営できるのかが、ほとんど語られません....。
マルクス主義者なら、リアルな問題から逃げるなよ。マルクスは「宗教は阿片である」という名言の通り観念論を否定して、物質的な豊かさを第一に考えたんだぞ...。観念論に逃げるなんて、マルクス主義者として失格だ。ちゃんとマルクス読めや。
組織はどんどん閉鎖していき、当然のごとく尖っていき、その矛先が内部の者にも向きます。組織の意向に沿わない行動をした者は「総括」を求められます。組織の意向と言っても、要は上の人間の気に入るようにという事です。
閉鎖したコミュニティは、上層部の権力を維持する方へ走ります。組織内でのリンチや殺人で、組織は上層部のお気に入りの人間だけが生き残るようになります。劇中では自分より美人な子を気に入らないから、自分で顔を殴るように指示され、その女は死んでしまう、という事まで起こります。共産主義国の粛清とか、オウムの「バジラヤーナ」と同じですね。
閉鎖したコミュニティの行先というのは同じで、そこは反革分子の粛清です。スターリンとか毛沢東とか、今の北朝鮮も同じ事をやっています。組織の上の人間が権力を維持するために、違う人間を処罰するのは、まぁ当然の結末というかですね。
かつてオウム真理教も、信者の殺人を行いました。それは「ポア」、つまり「魂をより高い世界へ移動させること」で以て正当化されます。これも要は麻原の権力を維持するためなんですね。組織の中でのポジション取りですよ。
革命を目指したんだけど、結局その手法はロクなものではないですね。おそらく彼らに政権を渡しても何も変わらないか、もっと悪くなるんでしょうね。村上春樹にも出てきますが、彼はそういう事を言っているのかな。
いずれ、秘密主義で何かをやろうとすると、大体の結末は組織内での争いで消耗か、方向を間違えて自滅か、どちらかですかね。
『マルクス・エンゲルス』感想 マルクスは少なくとも本気で労働者を救おうとしていた。
こんにちわ。なおっちです。
先日はこんな映画を観ました。
共産主義の父であるマルクスと、彼と「共産党宣言」を記したエンゲルスの半生を描いています。
マルクスは資本論とか、エンゲルスとの共著の共産党宣言とかが有名です。ソ連とかが真似をして、アメリカと競う大きな勢力になりました。
今では「共産主義」とか「マルクス主義」はヤバい思想と見られますが、元々はマルクスとかエンゲルスが国を追われたりしながら苦労して作り上げた思想なんですね。
エンゲルスはイギリスの工場の息子で、元々は資本家側だったりしますが、革命は飢えてないと出来ないという事で、彼はあえてそっちの道を選びます。自ら裕福な生活を捨てるとは凄いですね。
彼らが苦労して作り上げた思想は、やがてソ連などの東ヨーロッパや中国、北朝鮮なおどが受け継ぎます。しかし、結局はソ連は潰れますし、中国もその前に資本を入れてしまいました。
ソ連ではレーニン、スターリンがこの思想を利用して全体主義に走りました。特にスターリン時代は悲惨でしたね。中国でも毛沢東が文化大革命という形でそれを利用しました。北朝鮮は見ての通りです。
「生産手段の国有化」「私有財産の否定」は、国の権力が集中する仕組みであり、このように良くない事に利用されました。しかし、マルクスとかエンゲルスには、そのような意図は無かったのでしょうね。本作を見て、それを思うと悲しくなります。
そしてマルクスが凄いのは、リアルな問題から逃げなかった事です。彼は抽象的な観念論を否定して、唯物論を強く唱えた人物としてマルクスは有名ですが、劇中ではヘーゲルを批判するシーンなどで、それが強く現れています。
やはり人間世界の基盤にあるのは物質的な豊かさだと。ちゃんと生活が出来ないのに、観念論もクソもあるか、と言う事でしょうね。飯が食えなければ、哲学も宗教もクソも無いだろうと。
抽象的な物事(哲学など)は飯が食える人間が余った時間で出来る贅沢な学問なのですよ。プラトンのイデアなんて考えても、経済が成長する訳ではないですからね。「宗教は阿片である」というワードの本意は、これなのでしょう。宗教なんて考えても、飯が食えるようになる訳では無い、と。
だから、マルクスやその思想を否定するのではなく、それを利用した連中がヤバい奴らだと文句を言うべきなんですね。マルクス自体は実は凄く良い人で、本当に貧しい労働者と農民を救おうとしていた、と本作を見れば思うでしょう。
『マチネの終わりに』感想 ただのオシャクソ映画だと思っていたけど意外と面白かったけど不満もいっぱいの巻。
こんにちわ、なおっちです。
無職ロックンロール3年半の男です。ゆえにコロナでも無敵です。
はて、『マチネの終わりに』を見ました。平野啓一郎の原作も有名らしいです。
あらすじは皆さん知っての通りで、福山雅治演じるクラシックギタリストと、石田ゆり子演じる記者の女の、オシャレなラブストーリーです。
東京を始め、フランス、ニューヨーク、マドリードとかを舞台にした、けっこう大掛かりな作品です。
イケメンと美女が出会って、何か恋が始まって、イチャコラして、はいお終いっていう人の性欲を発散している所を見せつけられるムダな映画かと思っていましたが、意外に面白かったです。
フランスとか、そういうオシャレな歳を舞台に登場させると、「いかにもおフランス風でカッコいいでしょ?」という意図が透けて見えるんで、好きじゃないんですよね。欧米コンプレックスの強い日本人が、それを全開にしているような。そういう人、けっこういますよね。
確かに本作にも、そのような傾向が見られます。如何せん、原作者がちょっと左寄りの思想を持っていますから、まぁ仕方が無いと言えばそうなんですが。
そんで、何が面白いかって、ちゃんと人間の汚さが表現されていて、かつ意外性が用意されている所です。イケメンと美女が何不足ない生活をして、その上で恋愛をして~っていうんじゃ、つまらないですからね。
物語が動くキーになるのは、福山演じるギタリスト蒔野の女マネージャーです。彼女の悪意で、蒔野と洋子は食い違っていきます。
蒔野のマネージャーは、凄く暗くて真面目そうなんですけど、彼女が突然のクズっぷりを見せてきます。世の中の悪意は意外な所に潜んでいることを表現しています。いかにも「私は大人しくて真面目です」という感じを出しているけど、それは自分がクズであることを隠すため、という醜さ。ジワジワとそれが伝わってきます。
その後、二人はそれぞれの人生を歩みます。そこでもロクな事がありません。洋子は以前から交際していた男と結婚をします。しかし洋子が蒔野と出会っていた事を不満に思って、彼は洋子にその仕打ちをします。それで、蒔野の方はまさかの人間と結婚しているという.....。こういう意外性を以てして、良く出来た作品でした。いや、控えめに言って、面白かった。
最後にも、若干の救いが用意されています。すれ違った二人が、そのまま出会わなくて闇の中に残されたら、流石にちょっとと思いますが、興行収入のことも考えてか、しっかり明るい未来が最後に提示されます。
「マチネの終わり」の「マチネ」は、「昼の公演」という意味で、要はそういう事でしょう。それまでは昼の公演であったと。夜の公演(下を感じるが)はこれからである、的なそういう意味合いだと思いましたよ。
しかし、やはり主人公が福山雅治というのは、どうかと?有名なクラシックギタリストで、イケメンで、そこそこお金を持っていてって...。もう少しどうにか出来ませんかね?
いや、だって、まさかのですよ。まさかの福山雅治ですよ。いかにも過ぎて「またかよ」って思った人いたでしょ?どうして日本の映画は彼を使うことしか考えないのかな?福山しかいないなら、それは日本映画の終わりですね、はい。
そして、洋子のお母さんが有名な映画監督の奥さんってどういう事や?長崎県に住む普通の、凄く普通の女が、どうやって世界的な映画監督と出会うんだ?そういう事もあるかもしれないけど、流石に設定的に無理があるぞ。見る人によっては、あそこで飽きて映画に入れなかったかもよ。話が突飛し過ぎは、こういう映画の場合は良くないですね。